古石場アパート(古石場住宅)とは
「古石場(ふるいしば)アパート」は、東京都内だけに限ってみると、史上初の公設アパートだった。
日本国内最初の公営アパートは横浜市の「中村町共同住宅館」である。古石場住宅より2年早かった。1968年に取り壊された。
場所
古石場住宅の立地場所:は、東京・江東区の南部だった。
現在の住所でいえば、東京都江東区古石場2丁目である。
広くいえば「深川」地区というエリアに位置する。いわゆる東京の下町だ。門前仲町に近い。富岡八幡や「辰巳芸者」で知られる。
最寄り駅
古石場住宅が存在していた場所の最寄り駅は以下の通り。
- ・JR京葉線越「越中島(えっちゅうじま)駅」徒歩8分
- ・東京メトロ東西線「木場駅」徒歩9分
- ・東京メトロ東西線/都営大江戸線「門前仲町駅」徒歩9分
建物の構成
全5棟。123戸。
このうち4棟は「鉄筋ブロック造り」。3階建て。関東大震災の前の1923年3月に完成した。
残り1棟は「鉄筋コンクリート造り」。震災後の1926年に建てられた。
共同浴場と食堂(のち倉庫)
歴史(団地ができる前)
古石場地区はかつて、江戸城を築城する際の石置き場だった。
「昔の石置き場」だから「古石場」という名前がついた。
かつては東京湾からの荷揚げの船が行き来した。
その後、東京湾の埋め立てが進んだ。
集合住宅ができる前、一帯は茫漠(ぼうばく)とした荒れ野になっていた。
建設の背景
明治維新以後、都市部への人口流入が急速に進んだ。
工業地域を中心とした過密化が著しかった。
住宅不足と家賃の高騰が問題になった。治安の改善も課題だった。
低所得者層に対する住宅供給が求められた。
ちなみに、当時、アパートは「蜂窩(ほうか)式建物」と呼ばれていた。
団地づくり
古石場住宅を建設したのは、東京都(当時の東京市)である。
担当部署は「社会局」だった。
当時、東京市長は後藤新平(就任期間:1920年12月~1923年4月)だった。
東京市は1920年に「社会局」を発足させた。
低所得者層への住宅供給を目指した。
東京市営
正式名称は「東京市営古石場住宅」。
まず、1921年、「1号棟」(後の2号棟)の建設に着手した。
施工元:日本セメント工業
施工元は、鉄筋ブロックを大々的に売り出していた「日本セメント工業」(現在は消滅)だった。
日本初の公営アパートは横浜市「中村町共同住宅館」を手掛けた実績があった。
総工費22万円。
当時の東京
当時の東京市内の人口は約200万人。
東京駅の開業から10年も経っていない。
東京は都市化が始まったばかりだった。
不燃建築物
古石場住宅の特徴は、何といっても「不燃建築物」だったことだ。東京最古の不燃建築物だった。
構造
耐造構造を具体的に言うと、「鉄筋ブロック造」だ。これは特殊な工法だった。
その直後、関東大震災に見舞われた。
しかし、古石場住宅は大きな被害を受けることなく、その耐震性の高さを証明した。
震災後、同潤会アパート同様に、鉄筋コンクリート造の1棟が増設された。
当時としてはモダンな賃貸アパートとして長く生き続けることになった。
コンクリート
コンクリート材の価格はまだまだ高く、空洞構造、定型規格のブロックは、華々しくデビューした。
コンクリート製の箱のような形状で、補強材として鉄筋を縦横に組み込みながらコンクリートで接合する工法だった。
しかし、急速な建築技術の発展で、この工法は間もなく姿を消した。
120世帯が入居
120世帯が入居した
家賃は日当3~6日分
家賃は11円~22円50銭。工場などの日当3~6日分だった。
西洋長屋
西洋長屋としての庶民のコミュニティがしっかりと根付いた。
下町の人情あふれる住環境が形成された。
1997年12月時点で70世帯が居住していた。
入居希望者が殺到
当時は入居希望者が殺到したという。
最新の設備
欧米の影響を受けたデザイン。
小割のガラスが入った両開きの窓や厚い壁。
屋上の共同洗濯場。
さらには各棟に生活情報を提供していたと思われる拡声器が設置された。
都市ガスや水洗トイレ
敷地内には市営の銭湯があり、都市ガス、水洗便所が完備された。
天災や戦災を免れた
東京・下町を襲った数々の天災、人災を免れた。
関東大震災、東京大空襲、キティ台風などだ。
このうち関東大震災では共同浴場が損害を受けた。
東京大空襲では5棟のうち一棟が焼夷弾の直撃を受けて内部が丸焼けになった。
だが、決定的な被害には遭わなかった。
戦後の再開発
戦後の再開発の波の中でも生き残った。
戦後の払い下げ
戦後間もなく都から住民に払い下げられた。
1953年に東京都が払い下げを実施したのだ。その結果、各居住者の所有になった。
手狭になった
一戸当たり6畳1間から12畳。現代の感覚からすると、狭くなった
自室にトイレがついているのは一棟だけだった。二世代同居するのは難しかった。
手狭さを少しでも解消するべく、外壁をぶち抜いて新しい部屋を増築したり、ベランダを設置した。
老朽化も著しかった。
再開発の歴史・経緯
| 1988年 | 「古石場住宅を考える会」発足 |
|---|---|
| 1989年 | 高層化する再開発計画が浮上 |
| 1993年 | 「準備組合」設立。 |
| 1993年 | 都市再開発法に基づいて、新しく建てかえることで、住民らが大筋合意。 |
| 1998年3月 | 都知事の承認を受ける。 |
| 1999年11月 | 着工 |
解体時の発見
建物を解体する段階で調査が行われた。
基礎部分は、松杭(まつくい)とレンガで造った台の上からブロックが組み立てられていた。
一階床下では木材をレンガが支えていた。
さらに、屋上を除く各階の床はRC造だった。
近代日本の建築技術の試行錯誤が見られる「混構造」であることが分かった。
鉄筋ブロック造のほかに、以下が混ざっていた。
- ・松杭
- ・レンガの基礎部
- ・鉄筋コンクリート造の床
研究者の間では「鉄筋ブロックをふんだんに使っている」とのイメージが先行していた。
しかし、実際には全容積の2~3割が、他の工法で補われていたのだった。
跡地は「ウエルタワー深川」
跡地は、高層マンション(35階建て)となった。古石場住宅の区分所有者も入居した。
ビル地下2階、地上35階。塔屋1階。
以下で構成された。
- ・304戸の共同住宅
- ・区立保育園
- ・高齢者在宅サービスセンター
外構にカスケードをしつらえた。隣接する親水公園との調和を図った。
カスケード
隣接する親水公園と一体になったカスケードは、緩やかな水のせせらぎや流れ落ちる滝をイメージし、石の広場や木々の緑とともに開かれた空間を演出している。
懐かしい下町の風物詩
光が放つ夜の景観と時間的な変化をいかし、移ろいゆく光と影が都市の方向性や季節感を際立たせる。親しみや魅力をその周辺環境にもたらす。夜空に瞬くほのかに灯るぼんぼりのあかりを頂部に載せ、懐かしい下町の風物詩を彷彿とさせるしつらえとしてデザインした。
細い通り抜け路地
隣地との間には、細い通り抜け路地を配し、忘れかけていた下町風情と趣が感じられ、地域の抜け道となる空間を構成した。
設計監理
設計監理を担当した日本設計・都市建築研究所・笹川建築設計事務所JV。
新しいスタイルの都市居住環境とともに潤いや懐かしさを感じさせる数々の空間を用意した。
施工
施工を担当した安藤建設・五洋建設・鴻池組JV。
高精度・高品質の建物を無事故・無災害でつくりあげ、関係者の期待に応えた。
コンサル
株式会社都市建築研究所
ウエルタワー深川の概要
| 建築名称 | 古石場二丁目地区第一種市街地再開発事業施設建築物(ウエルタワー深川) |
|---|---|
| 所在地 | 東京都江東区古石場2-14 |
| 建築主 | 古石場二丁目地区市街地再開発組合、財団法人首都圏不燃建築公社 |
| 設計監理 | 日本設計・都市建築・笹川設計共同企業体 |
| 施工 | 安藤・五洋・鴻池建設共同企業体 |
| 敷地面積 | 6547.44㎡ |
| 建築面積 | 3028.58㎡ |
| 延床面積 | 3万8022.31㎡ |
| 構造規模 | RC・SRC造、地下2階地上35階建て塔屋1階 |
| 工期 | 1999年11月-2002年6月 |
| 住所 | 横浜市金沢区釜利谷東4 |
|---|---|
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| 研究テーマ | マンション、集合住宅、ビルの歴史 |